言葉が身体を離れていく時代に、バレエは何を語るのか

言葉が身体を離れていく時代に、バレエは何を語るのか

「言葉が人間という“肉塊”から解放される」

そんな言葉が目に留まりました。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の言葉を紹介した記事のタイトルです。

記事の全文を読むことはできなかったのですが、この一文だけでも、いろいろなことを考えさせられました。

これまで言葉は、人間の身体とともにあったように思います。

誰かが声を出す。

誰かが紙に文字を書く。

誰かが時間をかけて文章を綴る。

そこには、その人の呼吸や手の動き、考えていた時間、そして生きてきた経験がありました。

言葉の向こう側には、いつも「人」がいたのかもしれません。

ところが今、AIによって、言葉は人間の身体から離れたところでも生まれるようになっています。

文章を書くことも、画像をつくることも、音楽を生み出すことも、以前よりずっと簡単になりました。

それは、とても便利なことです。

同時に、

「では、言葉と人間の身体との間にあったものは、これからどうなっていくのだろう」

そんなことも、ふと考えます。

言葉は、身体から生まれていた

考えてみると、言葉はもともと身体と深く結びついていたのではないでしょうか。

声は呼吸から生まれます。

口が動き、舌が動き、喉が震えます。

文章を書くときにも、手が動きます。

そこには、その人が生きている時間があります。

うれしいときには、うれしい言葉が生まれる。

悲しいときには、悲しい言葉が生まれる。

迷いながら書いた文章には、その迷いも少し残っている。

そんなふうに、言葉の中には、知らないうちに身体や時間が入り込んでいたのかもしれません。

けれど今は、必ずしもそうではありません。

人間の身体を介さなくても、自然な言葉が生まれてきます。

そのことを考えていると、なぜかバレエのことが浮かびました。

バレエは、身体から離れられません

バレエには、言葉がありません。

もちろん、物語を説明するための言葉や、作品を理解するための言葉はあります。

けれど、舞台の上でダンサーが踊るとき、その身体そのものが表現になります。

腕を上げる。

視線を動かす。

一歩踏み出す。

立ち止まる。

誰かに手を差し出す。

そうした一つひとつの動きから、私たちは何かを感じ取っています。

ダンサーが「悲しい」と言葉にしなくても、悲しさを感じることがあります。

「愛している」と言わなくても、誰かを大切に思う気持ちが伝わってくることもあります。

もちろん、それをどう感じるかは人によって違います。

同じ踊りを見ても、心に残るものはそれぞれ違うでしょう。

それでも、身体を通して何かが伝わってくる。

そのことは、バレエを見ていると不思議だなと感じます。

同じ踊りでも、同じにはならない

バレエを見ていて、もう一つ思うことがあります。

同じ振付であっても、踊る人が変わると、どこか違って見えます。

振付は同じです。

音楽も同じです。

それでも、踊りにはその人らしさが表れるように感じます。

身体の使い方。

呼吸。

視線。

音楽との距離。

そして、その人がこれまで積み重ねてきた時間。

そうしたものが、意識しなくても踊りの中に表れているのかもしれません。

だからでしょうか。

同じ作品を何度見ても、同じものを見ているようには感じないことがあります。

その日の身体、その日の時間、その日の舞台。

一度きりのものだからこそ、残るものがあるのかもしれません。

言葉が増えるほど、身体が気になる

AIによって、これから私たちは、これまで以上に多くの言葉に触れるようになるのかもしれません。

必要な文章はすぐに見つかる。

文章もすぐにつくることができる。

画像や音楽も、身近なものになっていくでしょう。

そんな時代になると、

「何が書かれているのか」

だけではなく、

「誰がそれを感じたのだろう」

「誰がその言葉を生きたのだろう」

ということを、以前より考えるようになるのかもしれません。

もちろん、AIがつくった言葉にも、人の心を動かすものはあるでしょう。

だから、単純に「人間の言葉」と「AIの言葉」を分ければいいという話でもないように思います。

むしろ、言葉が自由になっていくからこそ、言葉の外にあるものにも目が向くようになる。

そんなこともあるのではないでしょうか。

バレエは、説明しない

バレエは、すべてを説明してくれるわけではありません。

むしろ、説明されない部分がたくさんあります。

ダンサーが舞台の上で立っている。

それだけで、なぜか心に残ることがあります。

その人がどんな一日を過ごしてきたのか。

どんな思いで舞台に立っているのか。

私たちには分かりません。

それでも、その身体を見ている。

動きを見ている。

呼吸を感じている。

そして、自分の中に何かが生まれる。

それは、言葉になる前の感覚なのかもしれません。

あるいは、言葉にしてしまうと少し違ってしまうようなものなのかもしれません。

身体には、その日の時間があります

人間の身体は、毎日少しずつ違います。

昨日できたことが、今日はうまくできないこともあります。

緊張する日もあります。

疲れている日もあります。

思いがけず、いつもより自由に身体が動く日もあります。

そうした小さな違いが、その日の踊りをつくっているのかもしれません。

完全に同じものを繰り返すことができない。

そこに、舞台の面白さがあるように感じます。

AIによって、さまざまなものが再現しやすくなっていく一方で、

「一度しか起こらないもの」

への価値を、私たちはあらためて感じるようになるのかもしれません。

人間らしさは、言葉だけにあるのでしょうか

AIについて考えていると、「人間らしさ」という言葉も気になってきます。

流暢に話すこと。

美しい文章を書くこと。

正確に答えること。

そうしたことだけが、人間らしさなのでしょうか。

もしかすると、言葉にならないところにも、人間らしさはあるのかもしれません。

沈黙すること。

迷うこと。

ためらうこと。

呼吸すること。

失敗すること。

誰かを見つめること。

そして、その場に身体を置いて、その瞬間を生きること。

そんなところにも、人間らしさを感じることがあります。

言葉が身体を離れていくからこそ

「言葉が人間という“肉塊”から解放される」

という言葉から、私はバレエのことを考えました。

言葉が人間の身体から離れていく。

その一方で、バレエは身体から離れることができません。

言葉を使わずに、身体で何かを伝えようとします。

それは、AIの時代にバレエが特別な役割を持つ、ということなのかもしれません。

あるいは、そうではないのかもしれません。

ただ、言葉がこれまで以上に自由になっていく時代だからこそ、

「身体を持っている」ということについて、少し考えてみてもいいのではないか。

そんなふうに感じました。

舞台の上に残るもの

舞台の上で、ダンサーが静かに立っています。

何も話していません。

けれど、私たちはその身体を見ています。

呼吸を感じます。

動きを追います。

そして、それぞれの中に何かが残ります。

それが何なのかは、言葉にできないこともあります。

人によって、きっと違うでしょう。

言葉は、これからますます身体から離れていくのかもしれません。

けれど、だからこそ私たちは、

身体でしか感じられないもの。

一度しか生まれないもの。

その人にしか持てない時間。

そんなものに、あらためて目を向けるようになるのかもしれません。

バレエを見ながら、そんなことを考えました。

そして、舞台の上に立つ一人の身体を見ていると、

人間は、言葉だけで生きているのではないのかもしれない。

そんな思いが、静かに残ります。